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Jun 26, 2019

石切梶原 ぼくの愛するやりとり

6月の歌舞伎座のひるの部に、ぼくの大好きな芝居「石切梶原」が出ていた。大敬愛する中村吉右衛門さんが主演だ。

この芝居で、ぼくが一番ぐっと魅かれるくだりは、序盤にある。刀のエキスパートである梶原が、名刀の目利き(鑑定)とか、切れ味をためすとか、いくつかの大きな見せ場をむかえるよりも、もっと前のプロローグの段階だ。

どういうくだりかというと、鑑定をするにあたり、梶原は、この一幕の舞台である鶴岡八幡の手水鉢で、手水をきちっとして、心身を清めたうえで、鑑定対象である刀を拝見しようとする。そのとき、この刀の持ち主で、鑑定してもらった上でそれを商売相手に売りたがっている、気骨のある老人が、こう梶原に語りかける。

「ああもし梶原さま、わたくしふぜいが所持の刀、お目利きくださるさえはばかりあるに、お手水には及びませぬ」

六郎太夫という名のその老人、わたくしふぜい、の一言が示すとおり、へりくだって梶原にそう申し出たわけだ。

ところが、梶原は、こう返す。

「ああいや、さにあらず。たとえ持ち手は誰にもせよ、銘作のつるぎとあらば、もののふのとうとぶところ。文は鏡、武はつるぎと、二つにとどまる、日ノ本の神宝(かんだから)。おろそかにはいたされぬ」

どんな刀でも、だれの刀でも、刀である以上はそれを造った人のたましいがこもっている。わたしはそのたましいへのリスペクトとして、手水をするのだよ。。。梶原はそう言いたいわけだ。で、言葉のとおり、丁寧な所作で手を清め口をすすぎ、そのうえでおもむろに刀の鑑定へと臨む。そんな梶原を、六郎太夫は、なんともいえぬ感慨とともに、無言で見つめている。

時間にして一分もあるかないか、だと思うんだけど、この二人のやりとり、両者のあいだに充ちわたる空気感に、たまらなくしびれるのである。

六郎太夫はこの刀を、300両という大金で買い手に商おうとしている。じっさいのところ、ものすごい名刀なのだが、それを鑑定してくれる梶原に、最大限の敬意をはらうために、あえて「手水にはおよばないです」と謙虚に申し出た。

彼のそのふるまいを好ましくうけとめた上で、でも梶原は、刀の真の愛好家としての姿勢や信念を保って、手水のプロセスを省かなかったし、逆にまた、省かずに手水をしてくれたことを六郎太夫はものすごく感謝している。そして、いらぬ気遣いをしたことや、それがために梶原の信念に対して、ちょっと邪魔立てしてしまったことを、恥じている。申し訳なかった、と反省している。

なんて美しい、思いやりや含羞にあふれたやりとりだろう、と何度この芝居を見ても、かならずこのくだりで、ぼくは、うるっとこみあげて鼻の奥がツンとしてしまう。

そして、さらに打ち明ければ、吉右衛門さんの梶原でしか、ツンとはならない。吉右衛門さんの梶原だけが、ツンとさせてくれる。このくだりにただよう「何か」が、ほかの人の梶原とは、ぼくの中では、決定的にちがうのである。

その「何か」とは何なのか、を知るためにこそ、この先もぼくは歌舞伎を見続けていくのだろう。一つの世界を大切に愛し続ける、とはそういうことであり、それ以上でも以下でもない。いろんなことは出来なくても、人は、もう、それでいいのだ。それだけでしあわせなのだ。