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Sep 14, 2020

半沢直樹は、ほんとうに、歌舞伎か?

●歌舞伎に似てる!
●スーツ歌舞伎だ!

と話題でもちきりのテレビドラマ「半沢直樹」について、ネットマガジンの取材を受けることになった。

ところが我が家はテレビを受信していないので、まだ放送を見たことがない。すぐさま映像資料を送っていただき、集中的に視聴し、自分なりに考えをまとめてみる。

率直にいえば、世間でいうほどの歌舞伎っぽさは感じないし、何よりこれは、たくさんの人が言うような「勧善懲悪」のストーリーにはなっていない、とぼくは思う。

勧善懲悪というのは、誰の目からも絶対的に悪どい、圧倒的多数にとっての迷惑な存在を倒すことだ。しかるにこのドラマは、敵対するそれぞれの組み合わせ、顔合わせが、彼らにとっての・彼らの都合や事情ゆえの反目心に駆られて、相手を倒そうとしているにすぎない。

半沢直樹は、あくまでも彼自身の憤怒や憎しみゆえに相手をぎゃふんと言わそうとしているだけのことで、たとえば社会的な弱者の窮乏を救いたくてとか、世の中の惨状をよく改めるべく行動を起こしているとは、少なくともぼくの目には映っていない。連呼する「感謝と真心」の決まり文句に、彼自身の行動や振る舞いが伴っているだけの実感がないから、その決まり文句もどこか空々しいのだ。

憎まれ役の怪演をこれでもかと繰り出す市川猿之助らのドアップを見続けているうちに、視聴者の内面には、彼ら悪役・仇役への嫌悪感があしざまに醸造される。それを見計らったように彼らに半沢がひとあわ吹かすことで、視聴者は、胸のつかえがそのつど解消され、なんだかやけにスカッとはする。そのことと勧善懲悪とが、混同されているんだと思う。

作り手は、この「スカッとする」展開を印を押すごとくに繰り返すことで、毎回の放映での爽快感を持続させてレートを稼いでいるわけで、考えようによっては、これくらい巧妙な番組の作りかたは、ないと思う。しかも、憎まれ役の「憎まれ役としての賞味期限」が切れたあたりで、半沢が立ち向かう対象・相手も、ある人から別のある人へと移行している。だから飽きがこないのだろう。このあたり、経済活動の限界効用・減価償却の理論の実践さながら。憎らしいばかりだ。

ただし、ドラマの構造や構成は、歌舞伎の作劇に共通するところが、たしかにあります。なみいる歌舞伎役者陣以上に「歌舞伎を感じさせる」、別の登場人物・演者もいる。それは何か、誰か、、、までここに書いちゃうと、きょう、この後取材を受ける意味がなくなってしまうので(笑)、それは取材の成果が発表された時に、改めてここでもご紹介しましょう。某女性誌のネットマガジンです。お楽しみに!