山川静夫さんのこと
土曜日のおくだ会の歌舞伎座観劇会。助六のとき、三階席上手に、元NHKの名アナウンサー・山川静夫さんが大向こうを掛けに上がっていらした。大の歌舞伎愛好家としても一時代を作ってきた方だ。
前の歌舞伎座が閉じるとき、千秋楽の助六で、ぼくは、山川さんが立ち見で掛ける大向こうのすぐ真ん前で、立て膝して一緒に掛けていた。なにせ歌舞伎座最後の一幕、大向こうがあまりにも沢山集まりすぎて、そうやって場を譲り合って芝居を見たのだ。窮屈で膝も痛かったけど、でも、あの一体感が、たまらなく心地よかった。山川さんの学生時代からのお友達も一緒だった。助六の幕開き、幕切れに、山川さんは「木挽町!」と、丁寧に声を張って掛けた。木挽町、すなわち歌舞伎座の所在地の町名だ。
歌舞伎座が新しくなったときも、みんなで元気に揃おうと約束して、あの夜は三階で解散した。案内さんは目を真っ赤にしていた。いざ新しくなったとき、三階のみんなは約束を果たせたのに、助六と通人がいなくなるとは、思いもしなかった。その後、山川さんのお友達の1人も旅立たれた。
大向こうの掛け方には、飾り掛け、化粧掛け、ともえ掛け、など、いくつかの種類、分類がある。それらを自在に使いこなすのは、今や、山川さんだけになっていて、土曜日もその細やかな使い分け、声の機微を、存分に味わいながらご一緒した。それ以上に、齢八十を越えた方が、二時間まるまる間合いを研ぎ澄まして、助六をずっと立ち見して声を掛けている。その事実にただただ、胸が熱くなる。何もかもが僕らとは別次元の、本当の大向こうなのである。
1991年の4月の歌舞伎座の千秋楽、テレビ収録に来ていた山川さんに、幕間のロビーでいきなり話しかけたのが、初めての会話だった。嬉しくてたまらなかった。25年が過ぎ、今はこういう形で、同じ芝居のなかで一緒にいられる。一つの道を続けるということは、ときに辛さも伴うけれど、こういう幸せを噛みしめられる、ということである。